承前

2-2
子供のいなかった頃の直子(左)と新六

掲載を再開するまで、約2年6ヵ月のブランクがあった。ここで、第1章と第2章の要約をしておこう。

私の父は1913(大正2年)、山形県の北部尾花沢の農家の6男として生まれた。高等小学校を卒業した後、東京の親戚の町工場(港区白金三光町)に小僧に出された。

旋盤工として修業を積んだ父は、親方から独立を認められ、荏原製作所にあった「組」と呼ばれる組織に採用された。「組」は大企業が新卒とは別に一定の枠をもうけて、技術経験者(職人)を採用する制度であった。そして、この時代は父のような旋盤工など職人の多くが、いずれ独立して小さくても自分で親方になることを夢みていた。

やがて父は、1914(大正3)年生まれで、1歳下の新潟県柏崎市出身の小石川直子と1936(昭和11)年に結婚した。水商売の家の五女であった直子は女学校を卒業した頃、家が没落した。直子は東京で暮らしていた姉達を頼って上京し、事務員として働いていた。やがて、母は姉の紹介で見合いをし、勤め人でまじめな人と勧められて父と結婚した。父が23歳、母は22歳のことであった。

結婚当初父は勤務を続けていたが、2年後にかねての念願どおり大田区糀谷に住まい兼工場の建物をみつけ、中古の旋盤などを買い揃え独立した。母は、父が勤め人ということで結婚し、穏やかな家庭生活を夢みていたから、この独立という父の決断には抵抗があった。しかし結局は父に従うことになった。

二人はしばらく子どもがいなかった。そこで、母は工場で簡単な作業を手伝う生活が始まった。やがて、結婚4年後1941(昭和16年)12月長女の私明紀代が生まれた。その5日前の12月8日、日本は真珠湾攻撃に踏み切り、アメリカと戦争を開始した。

承前追加挿入写真
生後1歳くらいの明紀代

父は召集を受けたが、なぜか入隊を免れた。父のすぐ下の新吾叔父や一緒に召集された郷里の青年達はフィリピンに派遣され、全員が戦死している。もし、父が入隊していたら、新吾叔父達と同じ運命になったかもしれない。

2年後の1943(昭和18)年次女祐子が誕生する。戦時色が強まっていく状況の東京の生活に不安を覚えた母は、子ども2人を連れて早々と故郷の柏崎に疎開をした。翌1944(昭和19)年、母は柏崎で待望の長男新一郎を出産した。しかし、その安心も続かなかった。柏崎の祖父の家は他の親戚も疎開して来ていて狭いため長く身を寄せることは無理な状態であった。その上、生まれたばかりの新一郎は、粉ミルクが手に入らず極度の栄養失調で、母は毎日通っていた医師から多分育たないだろうという通告を受けて、かなり苦しい日々であった。

東京では、工場の強制疎開の命令が出ていたので、父は工場をたたむ準備をしていたらしい。しかし、母は父の疎開の準備を待っていることが出来なかった。やがて、父は土地と工場を東芝に高い価格で売却することが出来たので、機械類一切を郷里郷里山形の尾花沢に運んだ。こうして、自分達一家はいったん尾花沢に疎開することにした。

父は母や子どもを迎えるため柏崎に向かったが、ここで父と母は行き違いが生じたらしい。父が柏崎に来るのを待てず、母は3人の子どもを連れて列車を何度か乗り継ぎ、尾花沢に向かった。やがて、1日遅れで父と母はようやく尾花沢の父の実家で出会うというひと幕があった。

しばらくして、父は尾花沢より奥地の原野のような芦沢に、小屋のようなを建て物を建て、私たち家族の住まいとした。強制疎開の時売らなかった機械類もここに保管した。同時に、糀谷工場で働いていた幸次郎が召集され中国に出征したので、その留守家族を呼び寄せた。
芦沢では、1946(昭和21)年8月4男隆男が生まれた。長女が4歳4か月、次女が3歳4か月、長男が1歳8か月と全員が年子に等しい年齢構成であった。しかし、戦争の影響は少なく、辺鄙ではあったものの、食べ物に不自由することはなく、母はようやく落ちついた生活を送れるようになった。

一方、父は東京の羽田に頑丈な防空壕を建て、弟十吉や甥の富夫と暮らし、時々芦沢にやって来て私たち家族の様子をみては、また東京に戻るという二重生活をしていた。戦時中、正規なルートでは切符の入手もかんたんではなかったのに、父が東京と山形という離れた場所の二重生活を続けられたのは、工場を売却した多額な資金を手にしていたこともある。しかし、父は東京で時々商売仲間などと会い、いずれこの戦争は負けて終わるらしいという情報を得ていたと私は想像する。父は戦争が終われば、工場を再開できるという願望を持ち続けていたに違いない。

1945年8月の戦争終結のニュースを聞いた父は、翌1946年、羽田で工場再開のため芦沢に運んでいた機械類を羽田に送り出し、やがて年の瀬も押し詰まった12月、私たち家族と中国から帰還した幸次郎叔父とその家族全員は、夜行列車で上京したことも紹介した。

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