1. わが家では仕事も増え従業員も増えて、子どもたちも順調に成長していた

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お正月でおもちゃを買ってくれた十吉叔父と4人の子ども
(左から隆男、新一郎、祐子、明紀代)明紀代小学校2年頃)

ことしは戦後70年。私や家族が暮らし、父母が工場を営んでいた羽田は、この70年間で何度も大きな変貌を遂げた町である。
往時は、産業道路から羽田空港に向かう弁天橋通りは、多くの商店が並びとてもにぎわいを見せていた。7月に開催される夏祭りは、荒っぽく上下に大きく揺さぶる神輿の「ヨコタ担ぎ」で有名だ。現在もこの夏祭りは開催され、いまも10台以上の神輿が繰り出し、毎年観客は数万人集まる。

しかし、現在の羽田の弁天橋通りは、夏祭り2日間以外には、バスや車が頻繁に行き交うだけの文字通りのシャッター通りで、驚くほど静かな町に変貌した。

ここで、時代は第3章と重なるが、私や家族が暮らした敗戦直後の羽田の町の様子に触れておく。

私の両親は30代で懸命に働く日々であったが、何とか生活が回り、従業員にも給料を払えた状態であった。少しずつであったが工場の仕事が増えるにつれて、従業員の数も毎年増えていった。地道な暮らしが身についていた父と母には、ずっと自分達が元気で働けるという見通しがあり、将来にも大きな迷いはなかったと思う。

ただ、長男の新一郎は病弱で生まれたため発育が遅れていたので、同年齢の男の子よりかなり小さかった点が、母には気がかりだったようだ。母は、父から新一郎は跡取りと言われていたので、4人の子どもの中では特に注意深く世話をしていた。しかし、新一郎は体格が小さいだけで、その後は大きな病気にかかることはなかったし、他の3人もふつうに育っていたから、子育ても順調といっても良く安定した日々であった。

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