2. 停電やモーター盗難などに不安定な中で、工場が再開

戦時中、父や十吉叔父、富夫と寝泊まりしていた分厚い頑丈な防空壕に隣接するところに、かなり大きな洗濯工場の跡があった。工場の一部分は焼夷弾を受け破壊され、屋根も飛ばされたままであった。父はこの焼け残った工場を自分の工場の再開場所と決めて買い求めた。
富夫によれば、やがて父は高千穂機械(株)の箕原昇三社長の紹介で、日本専売公社の煙草製造機の部品づくりを始めたそうだ。箕原社長は戦前から知り合いで、父が再び東京に戻って来たことを知って、煙草製造機の部品の仕事を紹介してくれたのであった。

さっそく操業を再開した父は、朝6時から工場を稼働させた。朝食7時の1時間前に働くのは戦前からのきまりだったそうだ。前夜遅くまで残業した場合も、判で押したように翌朝6時には必ずモーターにスイッチが入った。近所では「高橋さんの工場が動いたから6時だよ」と言われていた。父達は、全員山形の農家出身だったから、朝飯前のひと仕事は当然ことだった。

一方、母は家族の他従業員の食事作りのため、朝5時から準備をしていた。お手伝いさんはいたが、農家出身の10代の少女で、母からの指示がないと動けない年齢だった。総勢10数人分のご飯を炊くのは薪か、工場で使っていたコークスも使っていた。朝食では、味噌汁と漬けものが大好物な父達のために、食卓に大きな味噌汁の入った鍋と大皿にのった漬けものは必ず用意されていた。

外から工場に入っていくと、中はかなり暗かった。あちこちに数台あった旋盤の上には、真っ暗でよくみえない天井から手元を照らす電灯が下がっていて、旋盤の回りだけが浮かび上がっいた。旋盤で鉄を削る時は飴色のような「しょう油アブラ」と呼ばれる切削油を加工部品の上に垂らす。そこから白い煙が立ちのぼり、焦げたような匂いが漂っていた。そして、加工した旋盤の下には「切り子」と呼ばれる鉄くずが溜まっていた。

「切り子」は作業は終わる夕方、工場内の決まった場所に運ばれた。一定の量が溜まると、朝鮮人の鉄くず商が買い取りに来た。父はその代金で、品川にあった豚の内臓店から内臓をたくさを買ってきて、工場の片隅でよく宴会を開いた。いつもはきまじめな顔をして働いている父達が、この時ばかりは内臓の焼いたのを肴に酒を飲んで、楽しそうにしている。私も焼きたての内臓のお相伴にあずかるのがうれしかった。

当時は電力供給が不安定で、度々停電した。工場や住まいでは、停電に備えてカンテラにカーバイトを入れて燃やし、電灯の代用にしていた。カーバイトは燃やすと青白い光と強烈な匂いがした。

ある時、羽田の父の知り合いの町工場でモーターを盗まれた。父は夕飯の時うちもやられないようにしないと、食卓にいた叔父や従兄弟、私たちに注意を促した。苦労して山形から運んだモーターや工具類を、みすみす盗られてたまるかと思っていたであろう。まだ、敗戦直後で工具店には工具類が揃わず、盗られるとかんたんに買うことができない時代であった。

当時の父の工場では小さなネジを切るような仕事が多かった。ある時、加工を終え納入するボルトとナットが入った重いカマスを、父と誰だったか二人がかりでオート三輪に積み込んでいのをみことがあった。まだ部品を重量で量る加工賃稼ぎが主たる仕事だった。

戦前、中島飛行機の注文で、高度技術を駆使した精密部品を納めた経験のある父は、腕を振るえず悔しかったろう。しかし、この時代賃稼ぎの仕事でも注文があるのはいい方で、ぜいたくは言えないかったろう。

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