5. 可愛がっていた鶏やウサギが食用にされた

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小学校1年の3学期、明紀代 後列左から池下先生の前

しばらくして、富夫の弟武男が中学を卒業して工場で働くようになった。彼は機械操作を見習うかたわら、工場内の空いている土地で野菜作りを始めた。多分父がそうするように言ったのであろう。

彼は故郷で野菜作りを手伝っていたからお手の物であった。キュウリ、なす、トウモロコシ、カボチャ、ジャガイモ、さつまいも、青唐辛子など、次々に色々な野菜を作った。肥料は汲み取り式便所から運んだ人糞であった。夏になると、私は裸足になってキュウリやなすの袋がけや、長いホースを使った水やりなどを面白がって手伝っていた。

また、うちでは鶏4~5羽とウサギ4~5匹を飼っていた。鶏は卵をとるためで、毎朝鶏小屋に行き、産みたての温かい卵を2~3個取り出すのは、私の楽しい日課であった。ウサギは私たち子どもが可愛がっていて、いまでいうペットだった。ウサギの餌ははこべで、私は妹を連れて毎日のように焼け野原になっていた萩中までとりにいっていた。

私が小学2年か3年(昭和23~24年)のことだったと思う。学校から帰ると、工場の前に鶏の毛がいっぱい飛び散っている。何かへんだなと思い母に聞くと「鶏をさばいたの」という。私は、大人達が食用として殺したことに気づいた。私は母に「どうして」と言いつのったが、母は私の抗議を取り合わないので、私は黙って引き下がったのだと思う。なぜかというと、この出来事より、この後しばらくして、私にとってもっとひどいことが起きたので、食用になった鶏の顛末の記憶はそこで終わっている。

しばらくして、飼育していたうさぎも食用にされてしまったのである。学校から帰った私は、工場の前にウサギの毛が舞っているのに気づいて、すぐウサギ小屋に駆けつけると、ウサギ小屋は空になっていた。とっさにウサギが食用となったことに気づいた私は、ウサギ小屋の前でたぶん2時間くらい泣き続けて抗議をしていたと思う。私が鶏もウサギも可愛がっていたので、父達は私が学校に行っている留守に処分したのだろう。父達は農家の出身なので、飼育している鶏やウサギを食用にするのはお手の物でもあった。

父や母からすれば、食肉を買うのが難しいこの時代、たまには従業員に栄養があり、ごちそうでもある鶏やウサギの肉を食べさせたかったのである。しかし、そういう事情を理解するには、まだ私は幼かったのだ。

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