9. 自宅で洋裁を習っていた母の楽しいひととき

私が小学2年か3年生の頃のだったと思う。母は多忙な日々のため、過労で結核にかかってしまい、しばらく家で静養していた。蒲田にあった田淵医院の長身で白衣姿の田淵先生が、看護婦を連れて往診に来て、母にストレプトマイシンを注射していった。ストレプトマイシンは正規のルートでは出回っていなかった時代だ。父は高い診察代を田淵先生に払っていたはずである。さいわい、症状が軽かったのとストレプトマイシンが効いたのであろう。母は1年もたたないうちに回復して、また元通りの忙しい日々を送るようになった。

どこの家の母親も、食糧だけでなく、育ち盛りの子だくさんの衣類をどうするかは、頭が痛かったろう。既製品の服はもとより生地もかんたんには手に入らなかったからである。母は、購読していた婦人雑誌の広告で知ったのであろう。当時出始めた手動の編み機を購入した。正座して細長いモノサシのような棒を機械に通して動かす機械で、ガーター式編み機といった。母はさっそくガーター編み機を動かして、熱心に私達のセーターを編んでいた。

余談だが、後年私は60代になった頃、ガーター編み機を開発した日本ガーター(株)の創業者や同社の社史を書く機会があった。取材で関係者からガーター編み機の話を聞いた時、50年以上の昔の母の様子を思い出し、不思議な縁を感じた。

3-9ユニーク編み機
ユニーク編み機(日本ガーター製。「日本ガーター60年史」より)

母は洋裁を習う経験がなかったので、婦人雑誌の付録の型紙を使い、みよう見まねで私や妹のスカートなどを縫っていた。器用で凝り性の母はそれでは物足りなかったのであろう。羽田に住んでいた洋裁が出来る若い女性を呼んで、家で習うようになった。彼女は当時珍しいショートカットでスマートな体型で、週1回程度わが家にやって来た。
母は洋裁を習うことも楽しかったらしいが、若い先生から当時の若い女性達の様子を聞くことが楽しかったようだ。ある時、私が学校から帰ると、ラジオの音楽を流して、母とその女性が手を取り向き合って、畳の上でダンスをしている不思議な光景に出会った。

その女性は「そうそう、それでいいんです。難しくないでしょう」と教えていた。住み込みの従業員の世話に忙しい工場のオカミさんで、4人の子どもがいた母は、戦後解放された若い女性達が興じていたダンスに関心を持ったとしても、外で習うことは無理だった。そんな母の環境をこの先生性はよく分かっていて、母親をいっとき楽しませてくれたのだろう。

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