9. 芝居小屋「いさみ座」でチャンバラや水芸を楽しむ

いまの京急空港線はこの頃穴守線と呼ばれた単線であった。また穴守稲荷駅は稲荷橋といい、終点であった。戦前、この界隈は穴守神社に行く参拝客でたいへん賑わっていて水茶屋もたくさんあったし、東京湾に接して海水浴場もあったという。

私が2年生か3年生の頃まで、穴守駅の踏みきりの傍に「いさみ座」という小さな芝居小屋があった。私がこの「いさみ座」に魅せられたきっかけは、残念だが思い出せない。しかし、私はここでチャンバラや浪曲、水芸などを楽しんだことをはっきり思い出す。

「いさみ座」の演し物はすべて生で迫力があり、私にははじめて観るものばかりなのだ。どれもこれも、きらびやかで圧倒されるものばかりであった。いわゆるどさ回りの一座が演ずる時代劇では「瞼の母」や「國定忠治」をみた。女優も出演していたはずだが、印象が薄い。私は、筋書きはよく分からなかったが、主人公は悲劇の男らしいのだが、それでも何となく恰好がいいのだと感じた。浪曲「森の石松」や「馬場の忠太郎」などでは、浪曲師の強弱のある節回しや時々扇で台を叩く演じ方にびっくりした。

中で、印象が強かったのは水芸であった。きれいな着物にかみしもをつけた日本髪の若い女性が、扇子をもって三味線や太鼓に合わせ、「はーい」とかけ声をかけると、舞台上の飾り台のようなところから、細い噴水が高くなり、低くなって、次々に出てくる仕掛けであった。観客は漁師や砂利船のオジさんやおジイさんたちで、贔屓の役者や浪曲師が出て来ると、すかさずかけ声をかける。テレビが登場するまで、羽田のような町では、土地の人が夕食後に気軽に出掛けられる娯楽の王様だった。

私はいくら木戸銭を払って入ったのか、はっきり覚えていない。夜の興業が多かったはずで、私はどう言って母の許可をもらって「いさみ座」に出掛けたのかも思い出せない。想像だが、友達も観に行っているとか、少しだけ観て帰るからとか、それらしい理屈を言って出掛けたのだろう。日曜は昼の興業だったから、始まりから夕方終わるまで、舞台にかじりついて観たいたはずだ。子どもがひとりで芝居小屋に行っても、問題になることもなく、いま考えれば平和な時代でもあった。

やがて、私はおとなになってから芸能好きになり、ライブのコンサートや演劇に出掛けるようになった。そこには、幼かった頃羽田の「いさみ座」の体験がある。その他に、父の芸能好きが関係していると思っている。父は戦前独身時代の休日になると、浅草によく出掛けたらしい。
戦後、羽田で工場を再開すると、早い時期に、浅草の復興ぶりを見たかったらしく、私を連れてよく浅草に行った。浅草寺はまだ戦争の焼け跡が残っていて、本堂を薄い杉板で囲った状態で、参詣の人びとが本堂の外回廊を下駄で歩くがたがたという音がしていた。私は、父と華やかな浅草国際劇場の舞台で人気があった笠置シズ子、淡谷のり子、渡辺はま子、菊池章子など実力派歌手の実演ショーやSKDのレビューを何度も観ている。

夏になると、夕食後父は7〜8人の従業員を連れ、徒歩で大師橋を渡って、川崎球場に出掛けることがあった。徒歩で30分以上はかかる距離だったろう。父達は必ずファンの巨人側のスタンドに座ってナイターを観戦した。川上哲治や青田昇、杉下茂、大下弘、藤村富男などが人気者で、彼らがグラウンドに登場するとファンは大声で贔屓の選手の名前を呼ぶ。私は野球のルールはよく分からなかったし、最初は選手の名前も知らなかった。しかし、父達や回りの観客の興奮振りがおもしろくて、何度も通ううちに選手の名前を覚えていったし、野球に早い時期からなじむようになった。

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