2. 結婚一年後父は独立し、町工場を創業

髙橋新六・直子
高橋直子・新六

父は結婚したら荏原製作所を辞め、独立しようと考えていたのだろう。結婚後すぐ戦前の蒲田区北糀谷に小さな職住を兼ねた工場を借り、中古旋盤を購入し機械工作の仕事で創業した。荏原製作所に勤務の時代から、そのために貯金をしていたようだ。父は工場の入り口に「合資会社髙橋製作所」の看板を掲げた。

母は結婚に際して、姉や仲人が父のことを「勤め人で、まじめだと聞かされ、結婚に踏み切った。結婚前には何も聞いていなかったのに、結婚早々町工場を始めた」と56歳で亡くなるまで、機会ある毎に私にこぼしていた。母は夫が勤め人で自分は専業主婦という、核家族の穏やかな家庭生活を描いて結婚したのであった。

しかし、母は、父が工場経営に踏切り、事業拡大を追い続ける生活を最後まで続けたことを、心の底で辛く感じていた。このことは父母を語る上で、重要な点であったと私は思っている。おいおい、この紙面ではそうしたことを裏付けるエピソードを披露していくことになるであろう。

父の工場は順調に受注が増え、母もボール盤を使って部品の穴明け作業を手伝うなど忙しい日々であった。借金をしながらだったと思うが、機械を増やし、間もなく父の山形県尾花沢の実家で農作業を手伝っていたすぐ下の弟高橋幸次郎が呼ばれてやって来て、見習いに入った。

髙橋新六・直子・幸作(真中 大正8年生れ 幸次郎のすぐ下の弟)
髙橋新六・直子・幸作(真中 大正8年生れ 幸次郎のすぐ下の弟)

母は結婚1年数ヵ月で義理の弟が働くようになったことは了解していたが、しばらく同じ狭い家で暮らす生活になったことにはかなり抵抗感を持ったようだ。
同居は長い期間ではなかったらしいが、こういう点父は鈍感だったのだろう。父は農家の大家族同居のような暮らしを、ふつうと思っていたのかもしれない。

工場では受注が増え、父は実家や親類からの紹介で見習いとして森正國、石川栄、同七郎などを雇い入れて仕事を教えた。仕事が途切れることはなかったようだ。父の働き方は朝食前ひと働きし、忙しければ夕食後も残業は当たり前ということが多かった。

仕事どっぷりの父のスタイルは、戦後になり時代が変わっても、晩年まで生涯変わることがなかった。農家出身であった父は、健康であれば働くことは、そのまま生きがいであった。この点で、結局母はなかば諦め、父についていく生き方になったと思う。

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