6. 漁業や砂利採取の人が働く町でにぎやか町であった。

羽田は、かなり古い時代から多摩川の上流に大雨が降ると、川下にはたくさん砂利や石を運ばれて浅瀬ができていった。次第に人が住み始め、浅瀬を少しずつ埋め立てて町が形成されていった。やがて町では漁業者が増え、江戸時代には漁師が堀割を船で上って、江戸城の将軍に獲れたての魚介類を献上していた。その見返りに江戸の漁師は税金を免除されていたという。

私は東京に来た4歳から少し成長すると、家の周辺の子ども達や羽田小学校に上がって友逹と遊ぶようになると、彼らの家の職業が自分の家の工場とはまったく違うことに気づきくようになった。
友達の中に亀石さんという同級生がいた。彼女の母親は漁師のオカミさんであった。恰幅のよいオカミさんは二つのざる下げた天秤棒を軽々と担いで、わが家に獲れたてのアミや雑魚、アサリをよく売りに来ていた。オカミさんは母親に「雑魚は足が速いから、安くしておくよ」と二つのざるの中のかれいやアサリなどを全部売っていった。冷蔵庫などが無い時代で、売れ残りは腐ってしまうからだ。

多摩川の土手の内側には木造の造船所があり、雑魚をつくだ煮にする工場もあった。そこからは、醤油を煮しめたおいしそうな匂いが漂っていた。また、私は友達とこの土手の内側入り込んで、びちゃびちゃと水が溜まっている土砂を掘って「ごかい」を獲った。「ごかい」は魚を釣る餌で餌屋に持っていくと買ってくれるのだ。子ども達はこうした遊びをしながら、小遣いを稼ぐ方法を知っていたのだ。

戦後の復興が進んで、日本では製造業が盛んになっていく。それにつれて、町にはじょじょに小さな工場が増え、そこで働く人が増えていった。その結果、工場からの廃液や家庭の雑排水が多摩川に流れ込み、多摩川や東京湾が汚染するようになった。また、多摩川の対岸の川崎側にある大規模な工場は、生産が活発になっていくにつれて工場排水を大量に流すようになった。その結果、1960年代に入って、多摩川や東京湾の汚染が進み、魚介類は獲れなくなっていき、漁業が衰退していった。

私の住まいの後ろに、横山さんという砂利採取業の家があった。そこにはクラスは違う同級生の光江さんという長女がいた。他に子どもが2人いて1人は乳飲み子であった。オカミさんはいつも乳飲み子を背負って、買い物などでわが家の前を通るのだ。私の目からみても、このオカミさんはかなり身体が弱そうだった。事実、母と会うとオカミさんは身体が優れないとこぼしていた。そのため、長女の光江さんは身体が弱いオカミさんを助け、よく家事を手伝っていた。母は光江さんを感心な子だねとほめ、時々おやつなどを分けていた。

私は、砂利を採取して昼頃家に帰った横山のおじさんが、上半身裸でお酒を飲んでいる姿を度々目撃している。この横山のおじさんは信心深くて、毎月1日なると、仲間と船で千葉の成田山新勝寺にお参りに出掛けていた。そして、当時はまだ非常に珍しかった太い栗羊羹をお土産といって5~6本も持って来てくれた。働き盛りの従業員や子ども達には、この栗羊羹のお土産は待ち遠しいとびっきりのごちそうであった。戦後の復興需要で商売が繁盛していたから、横山のおじさんは景気がよかったのだ。

しかし、やがてこの砂利採取も、だんだん採取量が減り、若者は収入が安定している町工場などに就職して、後継者も減少し衰退していった。横山おじさんも砂利船を下りて、自転車で町工場に通うようになった。

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