6. 電熱器で沸かす五右衛門風呂や子どもだけでいく銭湯

工場の片隅にあったお風呂は、湯船にドラム缶を使った五右衛門風呂であった。燃料は高ボルトの電熱器をドラム缶に入れて沸かす。いかにも父が思いつきそうな原始的な方式であった。多分父は戦時中、この方式で防空壕の横で入浴をしていたのであろう。

この原始的なお風呂に子ども4人を入れるのに、母は非常に緊張し神経をとがらせていた。狭い洗い場の横にあったドラム缶の風呂は、いったん電源を切って、電熱器を取り出してからでないと湯船には入れない。さらに、洗うためにドラム缶からお湯をくみ出すので、絶えず水を足して沸かす必要があった。

もし、万一電熱器が入っているドラム缶に触わったら感電してしまう。危険きわまるこの入浴で、母親はすごいストレスの中で、4人の子どもにドラム缶に触らないよう注意し、必死の形相で入浴させていた。風呂場の外にお手伝いさんを待機させておき、母は手早く洗い終わった子どもを風呂場から出していた。

数年して、町で戦時中閉鎖されていた銭湯が再開し、わが家のこの危険な入浴は中止になった。その替わり、銭湯に妹と弟達を連れて行くのは私の役目となった。多分、私は小学3~4年くらいであったろう。毎日午後になると、徒歩5~6分のところにあった榮湯に、妹や弟達の手を引いて通うようになった。

銭湯には大人や子ども、年寄りがたくさん来て、非常に混雑していた。洗い場を確保するのも容易ではなかった。7歳の妹は何とか自分で洗えるので、私は先に4歳の隆男の身体を洗ってから脱衣場で服を着せて待たせておく。次に6歳の新一郎のからだを洗ってから服を着せる。それからようやく自分の髪や身体を洗って出る。みると脱衣場の床には、待ちくたびれた隆男がごろっと横になって眠ってしまっている。私は、自分と5歳しか違わない体格のよい重たい隆男を負ぶって帰宅するので、汗だくになった。
けっこう、たいへんな思いをして、ほぼ毎日銭湯に通っていたはずだが、私が銭湯のことで母に苦情を言った覚えはない。母が、三度の食事づくりだけでなく、工場事務の納品伝票書きやお金の管理なども、父の言いつけで色々忙しいことを、私は分かっていたのだ。

父は、職人としての腕は他人には負けないという自負を持っていたが、高等小学校卒業で、字を書いたりソロバンは苦手だった。母が、10人分以上の昼食の準備中、父から「車(三輪トラック)が待っているので急いで納品伝票を書いてくれ」と言われ、あたふたと割烹着で手を拭きながら、伝票を書く母の姿をよく目撃している。母は結婚前事務員の経験もあったし、アルバイトで筆耕の仕事もしていたので、きれいな字を書くのはずっと母の役目であった。

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羽田神社の稚児行列に参加した明紀代(小学3年頃)

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