7. 浅草海苔の本場であった羽田は養殖海苔の産地

高橋明紀代753_001
明紀代7歳の時、七五三(きものは母が古着屋で買ってきた)

家の近くに六間堀という堀割が通っていた。いまは、この上を首都高の羽田横浜線が走っている。当時六間堀には、養殖海苔に使うベかと呼ばれる小さな木造の船や、ぽんぽん蒸気と呼ばれたモーター付きのやや大ぶり砂利船、漁師用の船が係留してあった。

海苔養殖は羽田ではもっとも活気がある商売であった。冬の夜中東京湾で収穫された養殖海苔は、明け方までの短時間に機械で細かく刻む。刻まれた海水を含んだ海苔を、枡形の枠を置いた簾一枚ずつに流し込む。それから、海苔を流し込んだ簾を何枚か架けた木枠を外に出して、乾燥した天日で一気に乾かす。海苔の採取は男の仕事だが、乾かすのは何人かの女性達による労働集約型の仕事あった。夏になると、お父さんや長男は網や簾の補修をしたり、船の手入れをしていたが、女性達の姿は見えなかったから、彼女達は季節労働者だったと思う。
羽田の海苔は、戦前から大森などと共に浅草海苔として問屋に納められていた。この浅草海苔は戦前からブランド力ある東京土産だった。

母は冬になると、よく海苔屋からたくさん生海苔(なまのり)を買って、かつ節をたっぷり入れたつくだ煮海苔を作った。父が酒の肴に好んだので、大きな鍋にいっぱい作るのだ。私は、台所でこの生海苔の佃煮をこっそり食べるのが大好きであった。子どもながら、海苔の独特の香ばしさがあり、とてもおいしかった。また、春から秋にかけては、シャコが獲れる季節であった。シャコの茹でたてもおいしく、家族や従業員の夕食のおかずによく出された。醤油をかけるだけの素朴な食べ方だが、新鮮なのでいくらでも食べられた。

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