8. 子供会ではじめて賛美歌を習う

私の家から5〜6分の距離の羽田小学校の裏の町内会で、子供会を開いていた二人の青年がいた。私がここに顔を出すようになったのは級友亀石さんからの誘いだった。
青年の一人横山さんは網元か大きな漁師が家業で、家には大きな板張りの広間があった。そこに小学生の子どもたちがたくさん集まっていた。もう一人の幸田さんという青年が指導役であった。ここで幸田青年が教えたのは勉強ではなかった。絵本をの読み聞かせや紙芝居をやってくれた。ハーモニカを演奏して歌も教えてくれた。いまでいう子どもを対象としたボランティアだ。羽田には、親のいない子や貧しくて子どもの世話がままならない親が多かったし、子どもの娯楽がどほとんど無かった頃の話である。

時々お菓子も出してくれるから、子どもたちは熱心に参加していた。幸田青年は英語が出来るので米軍の羽田飛行場で働いていたそうだ。そういう事情で、幸田青年はお菓子などは手に入れやすかったのだろう。彼はクリスチャンでだったらしく、クリスマスの頃、ハーモニカで賛美歌を教えてくれた。

私は、大人になってから、この子供会を思い出した時、職業仲間でも無い二人が楽しそうに子ども世話をしていたのは、二人が戦前から幼なじみの間柄だったのだと想像した。

羽田には焼け跡になった建物の残骸があちこちにあり、低い土地なので雨が降ると水たまりが出来る。そこに、人が歩きやすいようにと食べたアサリの貝殻が捨てられていた。特に春から夏気温が上がると、貝殻に付いていた汁や貝柱の腐ったの匂いをかぎつけたハエがブンブン飛んでいるのは珍しくない光景であった。秋になるとキティ台風をはじめ、いくつかの台風がやってくる。特に漁師が多かった東の方は低地であったため、必ず床上、床下浸水の被害が出ていた。

ある時、小学校に水上で暮らす家族の子どもたちが入学して、しばらくの間授業を受けていたが、やがて姿をみせなくなった。担任の先生は、水上暮らしの家では船が漁のためだけではなく住居を兼ねていることや、季節に応じて魚を追う暮らしで、船を運航しながら、子どもたちを東京湾内や多摩川の最寄りの小学校子通わせると教えてくれた。

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