8. 終戦直後、父は再開のための工場をようやく確保

父は一九四五(昭和)年八月戦争終結を聞いて、すぐ工場再開を決意した。戦争の終結で、父は芦沢の小屋に保管していた機械を東京に移送し、稼働させれば、すぐ工場再開が実現できると思った。そこには何の迷いもなかった。

東京では多くの家が焼け出され、働き手はまだ海外の戦地から帰還していなかった。都市では人々の関心はきょう明日を生き延びる食料の確保であった。東京の多くの家では主婦や女性が千葉や埼玉の農家に着物などを持参して、野菜や闇米と交換していた時代である。

しかし、父は終戦時三十二歳で健康に恵まれ、旧円であったが大金を持ち、芦沢と東京を往き来しながら、戦争が終わるのをじっと待っていたのである。父が東京の拠点としていた羽田の防空壕・倉庫に隣接して、戦争で大半を焼け出された大きな洗濯工場があった。父はこの工場に目を付けて、その一角を何とか借りることができた。

やがて、この羽田でようやく工場を再開し一〜二年たったころ、昼間から酔っ払った年配の二人連れ男たちが父のところにやって来た。一人は父が小僧時代修業した師匠の某氏、もう一人はその知り合いであった。後から、母から聞いた話では、父は二人に工場を借りた際仲介をしてもらったらしい。このとき二人は父に仲介の上乗せの金をせびりに来たらしい。父は師匠たちの要求を断ることもできず、渋々お金を渡したらしい。この時、父が嫌な連中だと母にこぼしていたそうである。

また、私が小学生のころ晩酌で酔った父からこんな話も聞いている。父が工場再開する終戦直前、父が金を持っているという噂が伝わっていたらしく、山形の鉱山を買う話のサギにひっかかったそうだ。父は頑固でまじめな性格であったが、一面で山っ気もあったように思う。

株や宝くじは博打と同じと毛嫌いしていたが、父はこと商売がらみになると、うまそうな話に乗ってしまうことがあった。他にも秋田杉の山を買わないかと誘われ騙されたこともあった。詐欺師からみれば、父はどこか人がよく、案外騙しやすい一面を持っていたような気がする。

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