1. はじめて友だちと遊んだときのできごと

私は羽田に来た時は4歳になっていた。それまで暮らしていた山形北部の原野に近い芦沢では、家族や叔父一家以外の人と出会うことはほとんど無かった。
唯一、人と会うのは、朝晩田舎道を通って奥の鉱山に通うトラックに乗っている男性だけという、実にノンビリした毎日であった。
そういう辺鄙な環境から東京に出てきた私は、見るもの聞くもの驚きの連続だったと思うが、そのとき受けた筈の大きな落差の印象は、ほとんど記憶にない。

小学校に上がるまでの私の断片的でぼんやりした記憶の多くは、両親や妹と二人の弟の他、お手伝いさんや、住み込みとして工場で働く十吉叔父や従兄弟の富夫たちの様子であった。

羽田には幼稚園がなかったこともあり、しばらくして私と妹は近所に暮らす少し年上の姉妹とままごと遊びをするようになった。あるとき、その姉妹から私と妹はままごと道具を貸してといわれ「いいよ」と渡した。しかし、この姉妹はなかなかままごと道具を返してくれない。私はいずれ返してくれるはずだと思っていたのだ。しかし、なかなか返してくれないので母に「返してくれない」と訴えた。母は私たちの話を聞いて「あんたたちは騙されたのよ。もうあの子たちと遊ぶのはやめなさい」と言った。私がその後この姉妹と遊んだかどうかは、はっきりしていない。この時、私ははじめて騙されるという経験をした。

夕飯の時、母は父にこの出来事を話し「この町は子どもには良くないところですよ」とこぼしていた。父がどういう反応をしたかは覚えていない。けれども、母が羽田という町は子育てに向いていないと思っているらしいことはなんとなく分かった。
母が、羽田は子育てに向かないと言う理由は他にもあった。後でまた触れるが、町の1キロくらい先の羽田飛行場が進駐軍の基地になっていた。さらに、米兵士のかまぼこ兵舎が多く羽田に連接する萩中や本羽田の方にあったらしい。かまぼこ兵舎の記憶は無いのだが、最近羽田の郷土史家のセミナーに出席した結果、萩中や本羽田にあったことを知った。

かなりの数の米兵がいたかまぼこ兵舎は、羽田の町まで大人なら5~6分という近距離で、羽田の町中では米兵の姿は珍しくなかった。大人の制するのを気にもとめず私たち子どもは、米兵に「ギブミーチョコレート」と言ってチョコレートやキャンディをらもらうことも珍しくはなかった。

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