10. 夏祭りに学校を休ませる漁師の家に、級友を迎えにいく

当時多くいた漁業などに従事している土地の人は、羽田弁といわれる特有の訛の強いアクセントの喋り方で、大きくだみ声だ。彼らが町中で話していると、離れたところまで伝わり、ああ漁師のおじさん同士が話しているとすぐ分かった。

ある夏祭りの時、学校を休む子どもがいて、担任の先生に言われて級友3人で迎えに行くと、その家ではお父さんが頭に手ぬぐいのハチマキをして上半身裸で、酔っ払っていた。お父さんは私たちが息子を迎えにいったと分かると、羽田弁でだみ声を張り上げ「学校より祭りよ。先生にそう言え」とわめいていた。

羽田には子だくさんの家が多かった。近所では勤め人と呼ばれた家は1軒だけしかなかった。お母さんたちの多くは、家事や育児の傍ら家業を手伝い、夜にはのんベいの亭主の相手をしていた。小学校の低学年の頃まで、私はお母さんというのはどこの家でもそういうものだと思っていた。

住宅はいまでは考えられないような開放的なつくりで、時々繰り広げられる派手な夫婦げんかは隣近所に筒抜けであった。つまりは羽田は柄が悪い町で、学校の先生も父兄の多くが子どもの教育に関心が薄いことを嘆いていた。しかし、今思えば、たいへん人間くさく温かい素朴な人達が多かった。

そういう中で、わが家はここではよそ者として入って行ったかっこうであった。父はこの町の人達に受け入れられるように気を使っていた。そして、お祭りの寄付などは弾んでいたようだ。一方、母は教育熱心の珍しい母親と思われていた。そのことは、後で触れることにしたい。

第1章で述べたが、母は家と工場を分離して、父や子どもたちと暮らす勤め人の主婦で暮らしたかったのだ。母が当時その期待を果たせない不満を時々父に向かってぶつけていたのを、私は聞いている。けれども、母はしばらくの間は工場のオカミさんを続けていた。

やがて、朝鮮戦争の特需で父の工場は一気に大きな仕事が入って来るようになっていく。従業員が増え事務員も採用された。さらに、町工場の多かった蒲田に大きな給食工場が建てられた。この給食工場は協働組合で、町工場の主たちが出資して、従業員の給食を配達してもらう方式であった。

父の工場も、この組合員になったので、母は三度三度の食事作りから解放されることになった。また、仕事が増えて事務員も採用された。ただし、実印や小切手、手形は母が預かっていて、月末の支払の前日になると父が傍らで指示して、何枚のもの小切手や数枚の手形を切っていた。

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