10. 上野駅では、見るもの聞くものすべてはじめて、驚きの連続

終戦となり、幸次郎叔父が中国の戦地から帰還してきた。ある雪の降る中、軍隊帽に長い外套を着てリュックを背負った背の高い姿の幸次郎叔父が、芦沢の小屋の入り口に立っていた。雪の中を徒歩で雪まみれになった叔父の姿を、私はいまでもはっきり思い出す事ができる。

やがて、私たち家族と幸次郎・キミ一家は一九四六年十二月も押し迫ったころ、雪が降る中袖崎駅から夜汽車で東京に向かった。乗り込んだ車内は満員で大混雑し、スチーム暖房の熱気で溢れていた。私たちが乗った車輌は最後尾で後方扉がなく、そこに毛布がかけられていた。その毛布が時々風で巻き上げられ、列車内にひんぱんに吹雪と石炭の煤が入って来た。

乗客たちは車内で興奮気味で、寝ようともせず一晩中話をしていた。多分、戦争が終わって上京できる期待や東京で落ちつく先について語り合っていたであろう。やがて、列車は翌日の夜遅い時間に上野駅に到着した。

上野駅に着くと、構内には多くの列車が並ぶホームや高い天井、列車の蒸気などが私の目に一度に飛び込んで来た。リュックを背負ったり、大きな荷物を抱えた人たちが大勢構内を行き交っていた。声高な人々の話声や列車の発車のベルなどさまざまな音が重なって高い天井にこだまし、駅構内には独特の騒音が漂っていた。

見るもの聞くもの何もかもはじめてで、私は圧倒されかなり興奮していたと思う。上野駅からタクシー乗り場に向かう地下道の片隅のあちこちに、浮浪児の集団がいた。彼らは暗い中で目だけが光っていたような気がする。私はこわごわと、だが興味もあって見ようと彼らの傍で立ち止ると、後から父に「早く来い。来ないと置いていくぞ」と叱られ、慌てて父の後を追った。

焼け野原の蒲田
1945年4月15,16日空襲で焼け野原の蒲田

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