2. 工場を東芝に売却し大金を入手。機械を故郷に疎開

約七年前、私は父方の兄弟高橋富夫に会って、当時の父のことをかなり聞くことができた。また父の弟の十吉叔父にも話を聞く予定でいたが、すでに病気で入院していたので、退院後話を聞きたいと思っていた。しかし、やがて、十吉叔父も富夫も亡くなってしまった。二人にはもっと色々聞きたいことがあったが、いまはそれも叶わなくなった。

富夫の話では、戦前の父の工場はなかなか景気がよく、大手メーカーの仕事をやっていたようだ。ある時中島飛行機から測定機やオートジャイロ*のむずかしい部品加工を受注した。父の工場は高い加工技術を要求される注文をこなすことができる、評判の町工場であったという。中島飛行機からのオートジャイロの仕事を、父は誇りに思っていた。私は小学生のころ、晩酌をする父から何度もこの自慢話を聞いている。

中島飛行機は戦後米軍から財閥解体を命ぜられ、富士産業(株)と名前を改称した。やがて、そこで働いた多くの技術者たちが日産など自動車産業に転出し、戦後の日本自動車産業の発展に大きな貢献をしたことで知られる。

話を両親のことに戻す。妹が生まれた一九四三(昭和十八)年ころになると、日本では盛んに都市の「建物疎開」(家屋疎開)が行われるようになった。政府主導で米軍の空襲による建物(住宅・事務所・店舗・工場)の防火対策として進められた。

建物疎開の動きが出たころ、父は工場経営の継続が難しくなったと判断し、機械類を郷里の山形県尾花沢市周辺へ移転させ、工場はそのころ取引先のひとつであった東京芝浦電機(現在の東芝)に売却したという。

建物疎開
建物疎開

その結果、父が手にした金額は正確には分からないが、富夫の話では旧百円紙幣の札束が二つのリュックサックに一杯詰まるほどの大金であったそうだ。機械類はいったん農家の尾花沢の実家の片隅に保管させてもらい、働いていた従業員たちの一部は召集され、残りは解雇して工場を畳んだ。この話から、戦時中にもかかわらず、戦争にいかず、決まった仕事をすることもなく、大金を持ち気力も体力も盛んな三十歳のちょっと奇妙な父の姿が浮かんでくる。

翌一九四四(昭和十九)年母はすでに三番目を妊娠した。このころ母の二番目の姉竹田ヤエ伯母一家が東京の杉並の天沼で暮らしていた。ヤエ伯母は身重の母を心配し、長男肇に母の様子をみてくるように度々母を訪問させていたそうである。

東京ではすでに工場疎開をさせる前年の一九四二年四月、はじめて米軍のB25による東京、川崎、横須賀への空襲があった。一九四三年には学童の縁故疎開疎開が始まった。

母は二歳過ぎの私と乳飲み子の妹を抱えさらに妊娠の身で、このまま東京で暮らすことに非常に不安を感じ、度々東京から離れ安全な疎開先を探してと父に訴えていた。しかし、父は疎開先がなかなかみつけられなかったようだ。

分家であった農家の実家の六男の父は、実家に一時疎開しても、ずっとそこを生活の場にすることは難しかった。さらに、父は疎開先を生活の場としてだけでなく、機械類を安全に保管したいと考えていた。尾花沢は、米や野菜など食料の心配はなく、米軍空襲の危険に対しても安全だが、父が考える住まいと倉庫を兼ね備えた貸し家のような建物はかんたんには見つからなかったようだ。

 

*オートジャイロについて

多摩川精機60年史

6 戦時下での仕事拡大

爆撃照準機の試作

終戦直前、多摩川精機は軍から爆撃照準器用ジャイロの試作命令を受けた。これは特殊潜航艇に内蔵されたジャイロを博市が担当したことを軍に知られていたためと思われる。このことについて若干触れると、当時多摩川精機は航空計器製造専門工場として、発展を遂げていた。

1940年(S15)9月27日、日・独・伊三国同盟が結ばれ、政府は益々緊張を高めていた。そしてついに1941年(S16)12月8日、日本軍はハワイの真珠湾攻撃を開始し、米・英に戦線布告、第2次世界大戦へと突入した。
このとき、日本海軍の秘密兵器、特殊潜航艇5隻が人命をかえりみず出勤していた。この特殊潜航艇には北辰電機時代に博市が作ったジャイロ(羅針儀)が使われていたのだ。

(『多摩川精機 60年史』より)

 

私の手元にある『多摩川精機 60年史』をみていて、オートジャイロの記事が掲載されていたので、資料として載せた。

このころ、父は、多摩川精機のような大規模の工場を経営していたわけではない。しかし、中島飛行機という戦前は東洋最大、世界有数の航空機メーカーから直接受給できる技術力を持っていたのであった。

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