3. 父に無断で、母は子どもを連れて故郷柏崎に疎開

父は母に疎開先を探しているのでもう少し待つようにと言ったが、母ははっきりしない状態に待ちきれず、思いきった行動に出た。父に無断で私たちを連れて、自分の両親が住む新潟県柏崎市岬町の家に向かったのである。

新潟県柏崎市岬町海岸
柏崎市岬町海岸

多分、祖父はたいして広くない家にすでに小石川家の長男孝一一家六人が疎開していたので、母の疎開を必ずしも賛成しなかったろう。しかし、母は東京はもう空襲が始まって危険が迫っているし、自分は妊娠中なのでと強引に押しかけていったようだ。

やがて、柏崎に行った母は一九四四年十二月待望の長男新一郎を出産した。しかし、新一郎は生まれた時未熟児で、生まれながらに消化不良であった。

母は母乳がほとんど出ず、戦時中で粉ミルクを購入しようにも手に入らなかった。母は新一郎の容態を心配して、毎日徒歩で片道約二十分はかかる柏崎市内の医院に出かけて行き、医師に新一郎を診せた。なかなか回復しない新一郎みていた医師は首を傾げ「この子は育つかどうか」と言ったという。

残された私と妹は、母が帰ってくるのを祖父の家でじっと待っていた。後年、当時同居していたシズエ伯母から、母の帰りを待っている間ずっと妹が泣きやまないのを、私が「泣くんじゃない」と叱っていたと話してくれた。

母の留守のあいだ三歳の私が一歳の妹を叱っている場面を想像した。妹にはすぐ下に病弱な手がかかる弟が生まれ、母はその世話で手一杯であった。妹は母に甘えたくても甘えることができなかった。一方、私も母の不在を何とか我慢しているのに、妹が泣きやまないので、どうしていいのか分からず、妹を叱ってしまったのだと思う。

もし戦争がなければ、わが家では子守や女中さんを雇って面倒をみてもらうことはできたであろう。それも叶わず、母も辛かったと思う。このころ母は新一郎のいのちを守ることに懸命だったのだ。

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