3. 結婚四年でようやく長女が誕生。しかし母は相変わらず機械を動かし、多忙の日々

髙橋明紀代の誕生
髙橋直子・新六・明紀代

父母は結婚して三年間子どもができなかった。子煩悩な父は母に養子をもらいたいといい出すようになった。母は考えあぐねて、当時蒲田界隈で評判がよい南雲産婦人科を受診した。医師は母が子宮後屈で手術をすれば、妊娠する可能性があるとのことだった。結婚四年目、一九四一(昭和十六)年 一月手術をしたところすぐ妊娠し、その年十二月に生まれたのが私である。

父は待望の子どもが生まれたことがよほどうれしかったらしい。仕事の打ち合わせで、私をおぶって、自転車で職人仲間のところに出かけていったという。

私は物心ついたころ、母とお風呂に入ると、母のお腹の大きな傷跡をみてどうしたのとを聞いた。母は南雲医院で手術をし、やがて私ができたと、ちょっと誇らしそうに話すのであった。その後も私は自分の誕生についてすでに知っているのに、何度も母からこのエピソードを聞いた。

私が生まれても、母は相変わらず機械を動かし、納品伝票や請求書書きなど事務も持たされていた。母は字を書くのがうまいが、父は苦手と思っていたのである。

その上、働く人たちが見習いの間、住まいは近くのアパート住まいだが、三度三度の食事を提供していたので、目の回る忙しさであった。住み込みの若い女中さんを雇ったが、地方出の若い女中さんは母の指示なしには動けなかったのである。

やがて一九四三(昭和十八)年四月妹祐子が生まれた。女中さんはいたが、私や妹は、母に相手をして欲しいと母を困らせたようだ。工場・事務室と居間の境に鍵のかかる障子があった。居間から機械を使ったり事務をとる母の姿が見えると、私と妹は障子をがたがたさせ、母にこっちに来て相手をしろと泣き叫んでいたそうだ。

母はかなり大きな町家の出身で、仕事と奥(家庭)は別という環境で成長している。しかし、父は農家の出身で、一家総出で働くのは当たり前、そういう環境で子どもをみながら育てるのはふつうだと思っていたようだ。

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