4. 母は子ども三人を連れて、父の故郷尾花沢に向かう

一九四五(昭和二十)年五月から新潟市に空襲が始まった。母は生まれて五ヵ月の病弱の長男や幼い二人の子どもを抱え、新潟市の空襲に危険を感じたのであろう。狭い祖父の家で三世帯が暮らし続けるのも無理であった。それに、母は何より病弱な長男をひと目夫に見せなくてはという気持ちもあり、安全と思われる夫の郷里山形の尾花沢に向かうことにした。

母は信越線の柏崎駅からどういう路線を乗り継いで行ったのか。いまJR東日本の路線図をみると、かなりの距離ということが分かる。ともかく信越線の柏崎から山形方面に向かうため、どこかで乗り換え、奥羽本線の大石田駅のひとつ手前の袖崎駅を目指す大変な距離の旅となった。

乗り換えの時、線路の向こう側に袖崎駅方面に向かう汽車が入っていた。母は乳飲み子に幼子二人を抱え、発車寸前の蒸気を吐いている列車めがけて、懸命に走り、ようやく乗り継ぎの列車に間に合った。

車中では東北弁の女性の乗客たちが、白いワンピースを着ている私や妹が無邪気に歌を歌っているのをみて「めんごいな(可愛いいね)」と言ってくれ、母はやっとほっとすることができた。母は後年このエピソードも、よく私に語っていた。

父は柏崎に迎えに行くので待っているように母に言い渡してあったようだ。しかし、母は待ちきれなかったのだ。

後年、私が高校生だったころ、母は父や私の前で、この東京からの単独疎開や尾花沢行きがいかに大変だったかを語ると、父は「お前は俺を置いて、無断で東京から逃げ出したんだ」と珍しく言い返していた。

私は、二人のやり取りを聞きながら、母はたしかに大変だっただろうが、父の言い分も理解できると感じた。私が母をやや客観的にみるようになったきっかけのひとつは、こういうできごとがあったからのような気がする。父はそれ以降も、母が時々見せる後先を考えない行動に悩まされた。そのエピソードは後でまた触れていく。

JR東日本鉄道路線図
JR東日本鉄道路線図

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