7. 機械を疎開させ、工場再開を期していた父

すでに述べたとおり、父はいったん尾花沢の実家に機械類を保管してもらっていた機械類や価格の高い伸銅材などを、芦沢の小屋に移転させた。父は伯父たちに、なぜ機械類を東京から疎開させたか、話していなかったらしい。富夫の話では、伯父や親戚は「新六はこんなにたくさん機械を運んできて、製材所でも始める気かなあ」と話題になっていたという。

父は工場の立ち退きの際、機械や材料類は売却しなかった。いつになるかは分からないが、密かに再開に備えていたに違いない。職人から独立し中古機械一台から町工場を始めた父には、工場再開への強い執着があったのである。

このころ父は東京の羽田に東京の拠点ともいう場所をみつけ、そこに十吉叔父や富夫を呼び寄せ、住まわせていた。この場所は防空壕として建てられたもので、厚さ二十センチくらいの頑強なコンクリート製でできていた。父はここにわずかな旋盤なども置いて、鍋やかんたんな部品などを作っていたと、富夫が語っている。そして、父はこの羽田と芦沢の間を往き来していたのである。

家族が安心して暮らせるだけでなく、機械類を保管できる場所としても小屋を建設した父の判断は、やがて戦争が終ってすぐ工場を再開する際に、有利な条件となった。

これもぼんやりした私の記憶だが、あるとき小屋に泥棒が入って伸銅材を盗んでいった。父が盗難防止で伸銅を地中に埋めておいたのを、泥棒が掘って持ち去ったらしい。母は伸銅を埋めておいた場所の土がやや変色しているのに気づいて掘り返すと、伸銅は無くなっていたのである。

こんなできごとはあったものの、私たちの山芦沢での疎開生活は、家族がいっしょに、空襲の心配も無く、おいしい米や野菜も食べることができて、当時としては恵まれた日々を送っていたのである。

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