9. 疎開先からの機械の運送は牛車で

話を戻すと、父は一刻も早い工場再開を決意し、機械類を東京へ運ぶことになった。多分、一九四六年のはじめで、田畑や道路には雪が残っていた。戦争直後、田舎で機械輸送のためのトラックは調達できなかった。その上、鉄道貨車の確保も思うに任せなかったであろう。重たい機械を鉄道輸送するには、まず奥羽線袖崎駅まで輸送しなければならない。その上、袖崎駅に向かう県道には何カ所か坂があった。

トラックの代用となったのは、何と農耕用の牛であった。数頭の牛につけた荷車に、重量物の旋盤や他の機械、工具類を載せて運ぶことになった。しかし、農耕牛なので人や農作物を運んだことはあるが、重量物の旋盤や機械類を運んだことはない。牛にとってはとんだ災難であった。

やがて、牛は途中雪の県道に何度も座り込んで、びくとも動こうとしなくなった。それを、父や男達が懸命に号令をかけ、ムチ打って牛をせかせたそうである。運び終わるのにいったい何時間かかったのだろうか。何が何でも、工場を再開したいという父の執念が伝わって来る。

この話は何度聞いてもおもしろかった。戦争が終わって、日本では途方に暮れていた男も多かったであろう。しかし、そういう中で、父だけでなく各地に「これでようやく仕事をできるぞ」と奮い立った男達がいたはずである。彼らのことを想像すると、私はいまもちょっと胸が熱くなる。

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