■【追悼 2】
■『創業六十周年記念—幸せを願いつつ、牛の歩みのごとく』の著者 (株)マツイフーズ 松井幸次郎会長
『創業六十周年記念—幸せを願いつつ、牛の歩みのごとく』 松井幸次郎会長著
創業者 松井幸次郎会長
■生家は農耕馬を扱う家畜業
松井幸次郎会長は、新潟県の米どころ新潟県西蒲原郡の農家の四男として生まれました。生家は家畜業(博労)を本業としつつ、家族が食べる飯米も作っていました。
耕耘機がなかった時代、周辺の農家は3町歩から4町歩の田んぼを持ち、耕すには農耕馬に頼っていました。松井会長の家ではこの農耕馬を扱っていたのです。子どもの頃から松井会長は農作業と博労の手伝いをしていたので、農耕馬に親しむ生活でした。
1940(昭和15)年松井会長が16歳の時、家族のもとに日中戦争で召集された次男で兄が中国で戦死した報せが届きました。やがて、1944(昭和19)年二十歳になった松井会長も召集され、新潟県の新発田連隊に甲種合格で入隊しました。
創業の地 新潟県西蒲原郡 弥彦山のふもとの実りの稲穂
田起こしをする農耕馬
■過酷な行軍で胸膜炎にかかる
入隊した新発田連隊で訓練を終えた松井会長は中国の南京に赴きました。1945(昭和20)年2月、そこから新発田連隊は仏印(いまのベトナム)の部隊へ合流するために、行軍を開始したのです。1日8里〜10里の道程を重い背嚢を背負って、晴の日も雨の日もただひたすら行軍をする日々が続きました。
体力の消耗と中国大陸の慣れない環境で、松井会長は体調を崩し、医師から胸膜炎と診断されました。4月に入院しました。その後、松井会長は野戦病院や南京病院での入院生活を送り、7月にようやく退院することができました。
■兵站指令部で終戦を迎える
退院後、兵站指令部に配属となると、そこには食料、薬、たばこなどあらゆる物資が山積みになって保管されているのを目にした松井会長は、目を見張りました。行軍中の窮乏生活を体験していたので、兵站司令部のこのありあまる物資の光景は信じられない、夢のようだと映ったのです。
それまでの過酷な軍隊生活や入院の療養生活でやせ細っていた松井会長は、恵まれた食べものや落ちついた環境のせいで、体重が増え体力がみるみる回復していきました。
同年8月日本は終戦を迎えました。敗戦の報せで悔しがっていた上官もいましたが、松井会長はこれで自由になれる。日本へ帰ることができるという想いでいっぱいになりました。戦争の苦労をしなくて済むというのが本音だったそうです。
■帰国の上陸用舟艇の船上から日本の島影を目にし、女性の姿をみた感動
上海から日本の佐世保に向かうと言われ、アメリカの上陸用舟艇に乗せられた松井会長たちは、ほんとうに日本に帰れるのか不安な数日を過ごしました。
やがて数日後、船上から日本の島影らしいものが見えてきました。松井会長は目を凝らしてみると、そこに姉さんかぶりをした女性が井戸で水を汲む姿を目にすることができました。「ああ、ここは日本だ、日本に帰って来たんだ」と胸がいっぱいになりました。その女性の姿に故郷にいる母の姿が重なっていたのだろうと述べています。
松井幸次郎会長が入隊以来約6年ぶりで懐かしいわが家に帰還したのは1946(昭和21)年2月のことでした。
■新円切り換えで、除隊で手にしたお金は封鎖
帰還した実家では、家族が松井会長の帰りを心待ちにしていました。すでに述べたように次男は戦死していて、跡取りの長兄(戸籍上は三男、但し以後は長兄と表示)は松井会長より早く入営していたのですが、まだ帰還していませんでした。松井会長の帰還を両親や家族はとても喜んでくれましたが、長兄が戻っていなかったので、両親の心中は穏やかではなかったであろうと松井会長は語っています。
松井会長は佐世保に着いた時軍から旧円で約350円をもらったのですが、同年3月新円の切り替え政策のため、封鎖されてしまい使えなくなりました。松井会長はこのお金を両親や家族のために使ってもらおうと思っていたので、がっかりしました。
けれども、当時は戦後の混乱期で色々なことが大きく変わることは決して珍しくなかったのです。若かった松井会長は戦時中の大変さを思えば、この逆境を何とか乗り越えられるだろうと、気持ちを切り替えることができました。やがて、松井会長は一家を支える働き手として、父の仕事を手伝う生活が始まったのです。
■春の農繁期を前に、農耕馬の仕入資金で、親戚に助けられる
松井会長は入隊前の四年間、父親からある程度家業の博労の仕事を教えてもらっていました。ところが、軍隊から帰還してみると、実家では戦時中の生計を支えるため、ほとんどの馬や牛を売り払ってしまっていました。
農家は4月からは農繁期に入ります。博労はその前に農家に馬を売る稼ぎ時なのですが、松井会長の実家には馬を仕入れる資金が無い状態でした。この時松井家の状態を案じてくれた新潟市の母方の親類が、松井会長に声をかけてくれました。とにかく新潟まで出て来て馬を買うようにと勧めてくれたのです。
松井会長は父の勧めもあって、この勧めに応じて、はじめてひとりで馬の仕入れに出かけることになりました。父と相談の上、父は地元の燕市内の親類数軒に事情を話して、350円を借りて新潟の親類のところに出向きました。新潟の親戚に到着した松井会長は、この資金を馬の購入のために使って欲しいと差し出したのです。しかし、新潟の親類はこのお金を決して受けとろうとしませんでした。
■新潟市聖籠村(せいろうむら)で馬二頭を仕入れて、徒歩で連れ帰る
新潟市の親類の従兄弟にオート三輪に乗せてもらい、馬の世話人と共に、新潟県の北蒲原郡聖籠村(せいろうむら)(現聖籠町)に向かいました。
聖籠村は戦前から軍の委託で栗毛の馬を飼育する土地でした。ここで松井会長は気にいった一頭の馬を買い付けたのです。さらに、手元の資金は無かったのですが、もう一頭も是非購入したいと父に電報を打って、親類から一時代金を借りて二頭の馬を購入したのです。父は松井会長からの電報に驚いたでしょうが、了解してくれました。
当時は、馬を運ぶトラックなどは無い時代です。二頭の馬を徒歩で連れ帰る松井会長のために、親類は道中用にと握り飯を持たせてくれました。こうして、松井会長はこの二頭の馬を引いて、徒歩で実家の燕まで連れ帰ったそうです。
■良い馬を仕入れることで、商売のスタートを切る
最初に仕入れた二頭の馬を家に連れ帰ると、既にお客さんが待っていました。父は交渉して高値で売ることができました。松井会長はこの時初めて、良い馬であれば高値でも売れることを父に教えられたそうです。
松井会長はその後も聖籠村に馬の買い付けに出かけ、良い馬を仕入れて、父から立派な馬を仕入れたと言われました。松井会長は、最初は馬も無くお金も無いという状況でしたが、やがて多くの人たちの支援を得て、ようやく博労としてスタートを切ることができたのです。
■農地解放政策で急増した自作農を相手に、商売を成長させる
以降、松井会長は一人で良い馬を求めて、北海道の美幌や滝川などに出掛けて行き、帰りは仕入れた馬を積み込んだ貨車と同じ列車に乗って、実家の燕まで帰って来る生活が続きました。当時北海道からは汽車と青函連絡船を乗り継いで8日間もかかる道程だったそうです。
松井会長はさらに全国を飛び回って、商売に精を出す日々が続きました。戦後のインフレという追い風も功を奏し、活発に馬の売買を行うことで、松井会長はどんどん儲けが貯まっていき、商売の基盤を作り上げました。
同時に、日本に進駐したアメリカ軍の農地解放政策で、地元の小作農がみな自作農となりました。松井会長は自作農を相手に、おもしろいように商売ができる幸運に恵まれた点も大きかったのです。
■父から教わったのは、取引先と農家の信頼を第一に商売をすること
松井会長は自分が成功した点は他にもあると言います。戦後多くの人は裸一貫からのスタートでした。商売を始めるには、手元資金が無いので借金をしたのです。松井会長も同様なスタートでした。その際、松井会長が父から言われたことは「借金は期限の二、三日前までに必ず返す」ということでした。元金に利息と手間賃を乗せて、返済期限に余裕をもって返済すれば、次に困った時相手は必ず貸してくれる。反対に、一日でも期限が過ぎて返済した場合、完済しても、余裕を持った返済とは、今後のつき合いに雲泥の差が出るというのです。
松井会長は、父がこういう方法で信用を作り上げてきたことを学び、以降はこの教えを固く守ってやっていくようになります。もう一つ父から学んだことは、馬を買ってくれる農家との信頼関係をとても大切するということです。農家が何を望んでいるかを常に考え、目先のお金を優先するあこぎなことは絶対にしないというものでした。農家の人に繰り返し馬を買ってもらうために、信用を第一に商売をせよと教わったのです。この2つの点は松井会長は商売をしていく上で守り続けた信念となりました。
後年、この農家との強いつながりが、博労から事業を転換するという大きな転機の時たいへん役立つことにつながっていきます。
■兄の帰還で、家を出て家を新築し結婚
1947(昭和22)年松井家では、長兄がシベリアからようやく帰還し、両親や家族はようやく安堵しました。兄が松井家を継承することになり、松井会長は家を出て、手元にしていた資金で住まいを建てて、そこに馬屋と牛舎も併設しました。復員後2年で家を新築し、独立できた24歳の松井会長は気持ちもたいへん充実していました。
ところが、この後松井会長は思わぬ出来事に次々遭遇することになりました。新築祝いの喜びもつかの間、かねてから身体の弱かった母が54歳の若さで他界したのです。
やがて、母方の伯母から松井会長に結婚の話があり、同年12月井塚ヨキさんと 結婚をしました。
■病気療養の身になり、長男が病弱と試練が続く
仕事も順調で新婚生活がスタートして、松井会長は何もかもうまくいっていると思っていたのですが、結婚1年後に、体調に不具合が出てきました。
商売が順調になると、周囲から酒を勧められる機会が多くなり、やがておだてられて深酒をする日が続いていたのです。同年12月松井会長はついに動くにも動けない状態に陥りました。馬屋には四、五頭の馬がいて、その世話が欠かせないのですが、それもできない状態に陥りました。そこで、替わりにヨキ夫人に何とかやってもらうことになりました。
医者にかかると、結核性の病気と診断され、松井会長は愕然としました。当時結核には効果的な治療薬が無いので、絶対安静で寝ているしか無い病気で、いまの癌よりもっと手強い病気でした。医師から100日間の絶対安静を言い渡されて、辛い気持ちで、ただ寝ているしか仕方がなかったのです。
さらに、夫人は翌年3月の出産を控えていました。夫人は出産ぎりぎりの2月まで家にいて、会長の看病と商売の手伝いを続けていました。
■病気療養に専念し、馬を手放す決断をする
やがて、松井会長は辛い状態に落ち込んでいても始まらないと頭を切り換え、病気の治療に専念しようと決断しました。そこで、生活費と療養費のために、兄に頼んで馬屋に残っていた馬を全部売ってもらいました。
この時、松井会長は不思議に不安は無かったと述べています。馬はまたいつの日か買える。しかし、自分の身体はお金ではいかんとし難いのだと自分に言い聞かせたそうです。元気になれば、また商売を再開できると思ったのです。
3月に長男が誕生しましたが、未熟児でした。さらに夫人も体調を崩してしまいました。夫人と長男の世話は夫人の母が懸命に世話をしてくれたのです。
一方、松井会長は病床にいて、生まれたばかり長男にも会いにいくことが叶わない暗い日々を送っていたのです。
■療養中、神様が与えた試練なのだと気づく
創業者伝『幸せを願いつつ、牛の歩みのごとく』の中で松井会長は、数々の試練に遭遇した1950(昭和45)年は、人生において大きな意味を持っていた。自分が天に試された年で、神様は調子に乗っていた松井会長に試練を与えた。そこから松井会長が這い上がって来たら、本物だと認めてやろうと考えてのことであったと語っています。
以降、松井会長は商売が成功した時、順調な時ほど、地道で手堅い商売を心がけるようになっていきました。
さらに、病気から復帰して最初に馬を買いに出かけた時、また働けるようになったことに心底感謝しました。結核療養の経験から、松井会長は健康を第一に考えて、仕事に取り組むようになったのです。
■義弟(夫人の弟)が住み込みで働き始める
やがて、夫人の実弟 井塚富平氏が松井会長のもとで働くことになりました。若干15歳の義弟は住み込みで、松井会長から馬の世話や仕入れを一から教えられました。やがて、彼は一人でも岩手県に馬の買い付けに出かけるほどに成長していきました。実直な性格でその上商売も大好きな彼は、松井会長の頼もしい右腕となっていったのです。
馬屋で井塚富平氏
1953(昭和28)年に入り、馬以外に手間がかからない農耕牛を勧められます。そこで松井会長は初めて、農耕牛の本場の姫路に出向いていきました。
姫路にいた時、父の危篤に続いて死亡した報せを受けることになりました。父が亡くなったことで、父をこころのよりどころと思っていた松井会長は、いよいよひとりで商売をしていくことになったとの思いを強くしたのです。
耕耘機による田起こし
■農耕馬の扱いから、事業転換を考える
1955(昭和30)年頃になると、農家に耕耘機が導入されるようになっていきました。その数年後には松井会長が商売をしている西蒲原の農家にも、耕耘機を導入するところが出てきました。やがて耕耘機の販売会社から松井会長に電話があり、農家が耕耘機の導入で牛を下取りしたので、引き取って欲しいというのです。耕耘機の会社は牛の扱いが出来ないために、松井会長に相談をして来たのです。
この動きから松井会長は、そろそろ博労という仕事、家畜商は無くなると予感し、時代の移り変わりを実感したのです。
松井会長は今後の商売をどうするか真剣に考えることになりました。
■転業として精肉店を選び、四年間の準備をかけて開業し成功
この時松井会長は改めて父の時代から農家との深いつながり、信頼関係を築いてきたことを強く意識したのです。そして、農家では馬に替わって耕耘機を導入していましたが、田んぼや畑には堆肥が必要で、豚を飼育していたことに気づきました。そこに着目した松井会長は、農家で飼育する豚を買い取って、豚を精肉処理センターで加工処理した後、精肉の小売業、肉屋を始めることを決断したのです。
この決断は、馬や牛の販売からは一見突飛な発想のような印象がありますが、松井会長は農家との強いつながりと信用を築いていたので、そこを基盤とした商売をしようという確固とした考えがありました。
しかし、松井会長にとって肉屋という商売は経験ゼロなので、牛の販売を続けながら、数年の準備期間をかけて肉屋の開業を目指したのです。こうして牛に加えて豚も扱い始め、豚の売買でも農家を相手に信用を大事にする商売が高く評価されて、業績はどんどん拡大してきました。
一方、肉屋の開業のため、一番年下の義弟の井塚秀雄氏を、井塚家の了解を得て、知り合いの紹介で東京文京区の肉小売店で修業してもらうことにしました。この義弟は東京で4年間の修業を積んだ後、松井会長が準備していた燕駅の傍に開いた松井精肉店をの責任者として腕を振るうことになりました。
松井精肉店は精肉だけでなく、家族が手作りのコロッケや豚カツや焼き豚など加工品を作って売り出すと、すぐに燕駅を利用する通勤客などの常連客ができて繁盛していきます。
開店直後から繁盛した松井精肉店
さらに1980(昭和55)年のはじめ、松井幸次郎会長は「越後もちぶた」というブランド豚を飼育して出荷するグループと出会い、卸業として認められ、さらに事業を成長させていきました。
やがて、マツイフーズは2009(平成21)年に、創業の地燕市から新潟市西蒲区に新たに本社と工場を建設し移転しました。同時に以前にも増して人材教育などに力を入れ、組織もいっそう整備されていきました。
新本社・工場では「越後もちぶた」の精肉加工や小売時代に培ったノウハウを活かした豚カツ、焼き豚などの加工食材を生産販売しています。同年1月に創業六十周年記念式典を挙行し、列席した来賓に松井会長の『幸せを願いつつ、牛の歩みのごとく』が贈呈されました。
例年開催する畜霊祭
新潟県角田海岸で清掃
お気軽にお問い合わせ下さい
03-3449-0785
サイトマップ プライバシーポリシー